ミクロネシア連邦
概要
正式国名 | ミクロネシア連邦 (Federated States of Micronesia) |
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人口 | 約105,544人(2017年,世界銀行) |
民族 | ミクロネシア系 |
宗教 | キリスト教(カトリック、プロテスタント) |
1人当りGNI | 3,620米ドル(2017年,世界銀行) |
電話の国番号 | (691)+(相手番号) |
面積 | 700k㎡ |
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首都 | パリキール(Palikir) |
主要言語 | 公用語:英語および8の現地語 |
政体 | 大統領制 |
通貨 | 米ドル |
ミクロネシア連邦は、約300万k㎡の海域に広がる607の島々から構成されている。西太平洋の赤道の北側に位置し、ハワイから5,000kmほど西にある。

歴史
●古 代
ミクロネシア地域には紀元前2000年から4000年に、現在のフィリピンやインドネシアから渡ってきた定住者がいたと考えられている。また、ミクロネシア連邦で発掘された最も古い土器は、紀元200年頃のものであり、この時代にヤップ島に定住者がいたことの唯一の物的証拠となっている。
●中 世
ポンペイでは、5世紀頃から14世紀頃まで、サウテロール王朝が、遺跡として残っているナンマドールを拠点として支配した。コスラエでは、レラ島の遺跡から、14世紀頃から19世紀中頃まで王朝が支配していたことがわかっている。
●ヨーロッパとの出会い
1525年にポルトガルの探検隊が香料諸島を探す途中でヤップ本島とユリシー島を発見、ヤップ島に上陸した一行は4ヶ月間この島に留まった。次いでスペイン人が1529年にポンペイ島に、1565年にチュークに寄港した。コスラエについては1824年にフランス船が入港したのが西洋人との最初の接触である。当時の記録によるとコスラエには5,000人ほどの住人がおり、武器は所有しておらず、平和的な人々である、と伝えている。
●スペインの進出
スペインは、1595年にポンペイ島を自国の領土と宣言したが、カトリックの布教以外の活動はなく、実質的な統治は行わなかった。そうした中、1800年代中期からは、西洋諸国から捕鯨船団と貿易商、プロテスタントの宣教師などが頻繁に各島を訪れるようになった。
スペインは、ポンペイの領有を宣言してから約300年後の1886年、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島、ヤップからコスラエまでのカロリン諸島の領有権を宣言、ポンペイ島の支配権の確立とカトリックの布教活動を積極化した。しかしスペインによる統治は、要塞建設のための強制労働への不満やプロテスタント信者による反発もあり、政治的に不安定な状態が続いた。
●ドイツ統治
一方ヤップでは1869年にドイツ人が貿易のための拠点を開設した。以前から領有権を主張していたスペインは1885年に軍隊を派遣するなどして対抗したが、結局米西戦争後にこの地域からの撤退を決め、1899年カロリン諸島はパラオとともにドイツに売却された。ドイツの関心はミクロネシアの統治というより、ドイツ人が経営するコプラの生産を守ることにあった。他方20世紀に入ると日本人も貿易を目的にこの地域を訪れるようになった。
●日本の統治
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は赤道以北のドイツ領ミクロネシア地域(現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島、北マリアナ諸島)を占領した。1920年、国際連盟はこれら地域を日本の委任統治領とした。日本は1922年に南洋庁を設置、経済開発と教育普及を進めた。
●太平洋戦争
太平洋戦争がはじまるとトラック島(チューク島)には連合艦隊の司令部がおかれ、ミクロネシアの各島々にも守備隊が駐とんした。米軍の反攻がはじまると各守備隊は決戦に備えたが、実際には米軍の「跳び石作戦」によりアメリカ軍が占領したのはユリシー環礁のみで、その他の島々は徹底的な爆撃により無力化された。特に1944年2月のトラック空爆は2日間で60隻の艦船を海底に沈める猛攻撃だった。補給を断たれた住民と日本兵たちは終戦まで飢えに苦しんだ。
●米国の信託統治
1947年、国連はミクロネシア地域を6つの地区(マリアナ、ポンペイ、チューク、ヤップ、マーシャル、パラオ)に分け、米国を受任国とする信託統治地域とした。米国は経済開発にはほとんど関心を示さなかったが、住民への教育振興を進め、1965年にはミクロネシア議会を発足させた。
●独立への道
1970年代後半、米国と6つの信託統治地区との間で自治のための交渉が始められた。1978年7月、すでに独自の道をゆくことを決めた北マリアナを除く5地域と、1977年にポンペイから分離したコスラエによって、ミクロネシア憲法草案が起草された。そして各地区で住民投票が行われた結果、マーシャルとパラオでは否認され、その結果、残る4地域(ヤップ、チューク、ポンペイ、コスラエ)がミクロネシア連邦(FederatedStatesofMicronesia=FSM)を構成する州となり、憲法が1979年5月に発効した。 1986年、米国から財政支援を受ける一方で、国防と安全保障の権限を米国に委ねる自由連合協定(コンパクト)が米国との間で締結され、経済を含む国内問題はすべて自国内で処理することができるようになった。1990年12月、国連安全保障理事会はミクロネシア連邦の信託統治の終了を宣言した。
ミクロネシア連邦の概要詳細は、当センターガイドブックをご覧ください。
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