クック諸島
概要
正式国名 | クック諸島(Cook Islands) |
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人口 | 約20,000人(2017年,アジア開発銀行) |
民族 | ポリネシア系(クック諸島マオリ族)81%,混血ポリネシア系15.4% |
宗教 | キリスト教97.8%(クック諸島教会派69%,ローマ・カトリック15%等) |
GDP | 約414百万NZドル(2016年,アジア開発銀行) |
通貨 | ニュージーランドドル(硬貨については独自のものも有する) |
面積 | 約237平方キロメートル(鹿児島県徳之島とほぼ同じ) |
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首都 | アバルア(ラロトンガ島) |
主要言語 | クック諸島マオリ語,英語(共に公用語) |
政体 | 立憲君主制 |
経済成長率 | 3.5%(2017年,アジア開発銀行) |
電話の国番号 | (682)+(相手先の番号) |
クック諸島はニュージーランドとの自由連合。赤道の南、日付変更線の東に位置し、米領サモアとタヒチのあるフランス領ポリネシアの間にある15の島々からなっている。約200万㎞2の領海に点在する島々の総面積は237㎞2、日本の徳之島とほぼ同じ広さである。さらに15の島々は約1,000㎞の海を隔てて北クック諸島と南クック諸島に分かれており、その間に島影は見当たらない。南クック諸島が火山の隆起によって出来た島が中心であるのに対し、北の島々は全て低いサンゴ島であり、土地面積は南クック諸島の10分の1である。 クック諸島の首都アヴァルアのあるラロトンガ島は南クック諸島の中心であり、サンゴ礁に囲まれた美しい緑の火山島である。タヒチとニュージーランドのオークランドを結ぶ線上のすぐ北にあり、タヒチからの距離は1,260㎞、オークランドからは3,450㎞である。赤道を越えて北上するとハワイがあり、赤道からの距離はほぼ同じである。 クック諸島の総人口は19,342人(2006年太平洋共同体事務局)であり、南クック諸島に全人口の9割近くが居住している。また、海外に移住している人も多く、ニュージーランドに50,000人以上、オーストラリアに15,000以上が居住していると言われている。
クック諸島の名称はキャプテン・クックにちなんで名付けられたものだが、それはロシアの海軍大将が作成した地図で初めて使用されたもので、クック訪問から半世紀が過ぎていた。この地域がヨーロッパ人によって最初に確認されたのは、キャプテン・クックの来航より200年ほども以前のことであり、クック諸島と命名されるまではそれぞれ別の名前で呼ばれていた。1901年にニュージーランドが統治するようになって、南の島々と北の島々を統合し、クック諸島を正式名称とした。

歴史
●先史時代
クック諸島に人々が定住し始めたのは5世紀ごろからと言われており、ニュージーランドとタヒチを往復していたマオリ語を話す人々が、タヒチから島伝いに移住してきたのではないかと考えられている。北クック諸島のプカプカ島(Pukapuka)では約2300年前のものと推定される犬の頭部の骨が発見されている。犬はクック諸島の原産ではないことから犬を持ち込んだ外部からの移住者が居たのではないかと考えられる。また、1997年には日本の考古学者チームが、ラロトンガ島の近くの小島で1500年ほど前に人々が生活していたことを示す遺物を発見している。
●ヨーロッパとの接触
1595年8月スペインの航海者メンダナ(AlveroMendana)がプカプカ島を確認したことが記録されている。次いで1603年3月にはペドロ・フェルナンデスがラカハンガ島(Rakahanga)に上陸している。その後は1773年のジェームス・クックの訪問までヨーロッパ船の寄航は記録されていない。彼が発見したのは南クック諸島のマンガイア(Mangaia)、アチウ(Atiu)、タクテア(Takutea)、マヌアエ(Manuae)、パーマストン(Palmerston)の5島で、上陸したのは無人島のパーマストン島だけであったと伝えられている。
●ラロトンガ島の発見
1789年4月「バウンティ号の反乱」で知られるキャプテン・ブライ(WilliamBligh)がアイツタキ島(Aitutaki)を発見している。船がアイツタキを出港した後に反乱が起き、その首謀者のマッコイが率いた船がラロトンガ島を発見したといわれている。
●キリスト教伝道とイギリスの時代 1
821年にアイツタキ島でロンドン伝道師協会による布教が始まった。伝道師はタヒチから2人のポリネシア人を副伝道師として伴っていた。ポリネシア人による旧来の生活習慣や社会的秩序を巧みに利用した伝道は、アイツタキ島で驚くほどの成果を挙げ、1823年にはラロトンガ島での伝道を開始した。クック諸島は、キリスト教の布教と共にヨーロッパ人による貿易や捕鯨の中継基地として栄え1888年にはイギリスの保護領となった。
●イギリスの統治
イギリスの統治によって経済的繁栄はもたらされたが、ヨーロッパからの疫病が蔓延することにもなった。1823年にはラロトンガの人口は6,000~7,000人であったが、7年後の1830年にはタヒチからもたらされた赤痢によって1,000人が死亡した。ヨーロッパで一般的であった百日咳や麻疹、インフルエンザが次々に島の人々を襲い、1854年には人口がわずか2,500人に減少した。わずか31年間で人口は3分の1になったことになる。さらに1867年には人口が1,856人まで減少したことが記録されている。人口の減少は病気のためだけでなく、多くの住民が一般の労働力および奴隷として南米のペルーに送られたことにもよる。イギリス政府はラロトンガの人口の減少を食い止めるため、他の島からの移住政策を開始したが、実際に人口の減少を止めることができたのは20世紀に入ってからであった。
●独立への道
第2次世界大戦中、アメリカ軍はアイツタキ島とペンリン島に滑走路を建設したが、戦争による影響は殆ど無く、戦後、他の太平洋島嶼国が独立に向けて動き出した際にも、クック諸島は静かなままであった。クック諸島に独立への機運が現れたのは、1960年代に入ってからであり、1965年、内政自治権を獲得してニュージーランドとの自由連合に移行した。

●地理
クック諸島はフィジーとタヒチの間に位置し、東経155~170度、南緯7度から南回帰線に点在する15の島々で構成される。大きく南と北の2つのグループに分けられ、赤道に近い北グループは6つのサンゴ礁から成り、無人島であるスワロー島は、ロバート・ルイス・スチーブンソン著の「宝島」として有名である。一方、南グループは9島の内、5島が火山島である。殆どの島は海底3,000mの深さから隆起しているが、最も北にあるトンガレバ島のあるペンリン環礁は海底5,000mから隆起している古い火山の頂上に出来た環礁島である。
島々の特徴をまとめると、次のようになる。
南クック諸島9島
ラロトンガ島 | 67.2平方km | 高い火山島 |
マンガイア島 | 51.8平方km | 火山の隆起島 |
アチウ島(Atiu) | 26.9平方km | 火山の隆起島 |
ミチアロ島 | 22.3平方km | 火山の隆起島 |
マウケ島 | 18.4平方km | 火山の隆起島 |
アイツタキ島 | 18.1平方km | 環礁島 |
マヌアエ島 | 6.2平方km | 環礁島 |
パーマストン島 | 2.0平方km | 環礁島 |
タクテア島 | 1.2平方km | 環礁島 |
環北クック諸島6島
トンガレバ島 | 9.8平方km | 環礁島 |
マニヒキ島 | 9.8平方km | 環礁島 |
プカプカ島 | 5.1平方km | 環礁島 |
ラカハンガ島 | 4.1平方km | 環礁島 |
ナッソー島 | 1.2平方km | 環礁島 |
スワロー島 | 0.4平方km | 環礁島 |
●政治
クック諸島は外交と防衛をニュージーランドが責任を負う自由連合国である。元首が英国女王エリザベス2世で、首相が政府を率いる。議会は形式的には英国のシステムと同じく、上院と下院の2院制を採用。下院は24議席で、24議席はクック諸島各地の代表。上院は各島の部族の長またはその代理者が議席を有しており、新しい法律と伝統との関係などを政府に意見具申するための機能に限定されている。 現在は、自由連合協定を締結している関係から、貿易や経済協力の面でニュージーランドへの依存は高いものも、1973年にはクック諸島・ニュージーランド両首相間の書簡交換で「自由連合」終了権利を確認していおり、ニュージーランドとしてもクック諸島の自立を期待している。クック諸島としても、自由連合関係を引き続き維持していきたいとは考えているものの、太平洋諸島フォーラム(PIF)の原加盟国でもあり、1970年代以降太平洋島嶼国・地域との域内協力を推進している他、ユネスコや世界保健機関(WHO)等の多くの国際機関にも加盟している。 また、現在国連未加盟国ではあるものの、米国やEU、中国を含む27カ国と外交関係を締結している。日本とは2011年3月に国交を締結し、193番目の国として承認された。