歴 史91 一方、先住民族であるバイニング族で一番有名なのはその民族舞踊で「ファイアーダンス」と呼ばれる。鳥や動物を模した独特の大きな仮面を被り、リズムに合わせて踊りながら火の回りを廻り、火の中にジャンプしていく。勇壮でダイナミックな踊りは彼らの民族的地位に反して東ニューブリテン州の代表的な踊りとなっており、州旗のデザインにも使われている。 また州南部のポミオ地区は急峻なナカナイ山脈が走り、年間降雨量6500㎜以上と多雨な気候で、土壌も悪く交通も不便なため、産業は木材伐採があるのみとなっている。 考古学的発見から、少なくとも1万2千年前にはニューブリテン島に人類が居住していたと考えられおり、ワトム島では土器やタラセア半島を起源とする黒曜石などと共にラピタ文化の担い手であった人々の遺骨が発見されており、約2500年にこの地にラピタ人が居住していた証拠となっている。 ニューブリテン島の名は1700年にウイリアム・ダンピールがこの海域を航海し、ニューギニア島との間の海峡をダンピール海峡とし、新しく発見したこの島をラテン語でノバ・ブリタニア (Nova Britannia=英語でNew Britain)と名付けたのが由来である。 1884年、ドイツがニューギニア島の東半分とニューブリテン諸島を植民地化する事を宣誓し、ドイツ領ニューギニアとなった。マヌス、ニューブリテン、ニューアイルランドを含むこの島しょ部一帯は「ビスマルク諸島」と名つけられ、ニューブリテン島はノイ・ポンメルン(Neu-Pommern 新しいポメラニア)というドイツ語風のホテル敷地内に保存されるクイーンエマの屋敷跡の階段名に改名された。 ドイツ統治時代を象徴するのが実業家のエマ・フォーサイスである。アメリカとサモアの血を引くエマは1878年にデューク・オブ・ヨーク諸島のミオコ島に居を構えてコプラの貿易を始めたが、やがてガゼル半島の土地を購入してコプラのプランテーション経営で利を上げ、ニューブリテン島だけでは無く、ニューアイルランド島やブーゲンビル島も含む6万ヘクタールものプランテーションを所有する大富豪となった。ココポの海岸沿いのラルムに建てた屋敷では贅を尽くした社交パーティーが催され、その派手な生活ぶりも含めて「女王エマ (Queen Emma)」と呼ばれた。 1914年7月に第一次世界大戦が始まると、9月11日にはオーストラリア軍がコ
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