パプアニューギニアガイドブック
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政治と経済5ダ領との境を源流としてニューギニア島の北へ流れるセピック川と南のパプア湾に下るフライ川を結ぶ全流域の調査や、過去の入植者が手を付けなかったハイランド地方への探検隊の派遣などが行われた。金鉱脈の発見もこの年代だった。しかし一方では、新しい入植者とニューギニア人との間で労働条件を巡る緊張が高まり、1929年には大規模なストライキが発生している。●第2次世界大戦 1941年12月、日本軍が真珠湾を攻撃した時点では、オーストラリアは英国と共に北アフリカやヨーロッパで2年にわたってドイツ軍と戦っていた。日本軍はその虚を突いてニューギニアからソロモン諸島へと戦線を拡大し、1942年1月23日にはラバウルを占領、ここを拠点にニューギニア島のレイ(ラエ)、サラモアに上陸した。日本軍は、ココダトレイルの難所を突破してポートモレスビーの僅か50㎞まで侵攻したが、オーストラリアとアメリカの連合軍の激しい反撃を受け撃退され、この敗戦を機に苦難の撤退が始まった。 1943年9月、連合軍は激戦の末にラエを奪回、日本軍はウェワクまで追い詰められた。ニューギニア島での戦闘は1945年までにほとんど終結していたが、ニューブリテン島やニューアイルランド島での戦闘は無条件降伏による武装解除まで日本軍の散発的な抵抗が続いた。 パプアニューギニアの7月23日の戦没者追悼記念日は、1942年の日本軍の侵略に立ち向かったパプアニューギニアの歩兵大隊の戦闘を記念したものである。●終戦から独立まで この大戦を契機に、ニューギニアの人々はオーストラリアの植民地政策に疑問を持つようになり、不満は次第に大きくなっていった。また、世界的にも植民地支配への反発が強まったことから、1962年に国際連合はオーストラリアとオランダに対してニューギニアの独立を支援するよう要請した。そのポイントは、国語力の強化を中心とした国民全体のレベルアップと徹底的なエリート教育を同時に行うことによって自治政府の発足を早めることだった。結果として、1963年にはオランダ領の西半分がインドネシア領イリアンジャヤとして独立、1964年には東半分のオーストラリア領では64人の議員による初の議会が開かれた。 1973年に自治政府が発足、1975年3月には外交と国防をオーストラリアから譲り受け、同年9月16日にパプアニューギニアとして完全な独立を達成した。●政治動向 パプアニューギニアでは1975年に独立して以来ソマレ政権が5年ほど続いた後、小党が乱立して連立政権が続いている。ブーゲンビル島では、1988年にブーゲンビル銅山に関する地主の土地賠償要求に端を発した紛争が、その後ブーゲンビルの分離独立運動にまで発展し、89年には非常

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