パプアニューギニアガイドブック
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29クス港、モレスビー港と名つけた事に由来する。1884年11月6日に英国はポートモレスビーの丘にユニオンジャックを立て、ニューギニア島の東南部の領有を宣言した。これが英国領ニューギニアの始まりであり、独立前のクイーンズランド(オーストラリア大陸)をドイツから守る事が主要な目的であったという。その後オーストラリアが独立すると1905年に英国領からオーストラリアに譲渡され、改めて「オーストラリア領パプア」となった。 太平洋戦争では連合軍の基地でありオーストラリアの防衛線であったポートモレスビーは、何度か日本軍の攻撃目標となった。1942年5月の「珊瑚海海戦」に続き、7月には太平洋側から上陸して陸路攻略をポートモレスビーのダウンタウン地区ポートモレスビーのダウンタウン地区エラビーチ付近目指し、日本軍が大きな被害を被った南海支隊による「ポートモレスビー作戦」ともにポートモレスビー攻略には至らなかった。フィリピンを日本軍に奪われた米軍マッカーサー元帥は、1942年11月から1944年10月までポートモレスビーに南西太平洋方面司令部を設置して連合軍の指揮を行い、フィリピン奪還を目論んだ。 戦後、オーストラリア領パプアと北部の信託統治領ニューギニアが合併されて一つの行政単位となり、オーストラリアの準州である「パプア・ニューギニア準州」Territory of Papua New Guineaとなった。 1975年パプアニューギニア独立国として平和裏に独立、ポートモレスビーは首都となった。この時ワイガニにある独立の丘ではオーストラリア国旗を降ろし、パプアニューギニアの国旗を掲揚するセレモニーが行われた。 独立後、ポートモレスビーは激しい政争の舞台となることもあった。1997年、英国の傭兵部隊を雇ってブーゲンビル紛争の武力解決を狙った当時のジュリアス・チャン首相に対し、国軍のシンギロック長官が国営ラジオ局をハイジャックして首相退陣の要求をした事でクーデター騒ぎとなり、首都には戒厳令が引かれ数日間封鎖された(サンドライン・クライシス)。 また2011年、国外で入院中のソマレ首相を本人不在のまま国会決議で更迭し、新首相としてオニール氏を選出した。それに

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