4にフィジーの東の端にあるラウ諸島(Lau Group)を訪れている。しかし、この両者ともフィジーの主島ビチレブを確認したわけではなかった。ビチレブを確認した最初のヨーロッパ人は1789年のバウンティ号の反乱で知られるキャプテン・ウイリアム・ブライである。キャプテン・ブライは乗組員の反乱の際48日間ボートで漂流するうちに、フィジーの39の島を確認して地図に記載している。 ヨーロッパ人がフィジーに本格的に進出するのは19世紀に入ってからで、それまではフィジーに住む人々は好戦的であり、航海者に敬遠されていた。●貿易商と部族間の対立 19世紀に入ると捕鯨船の寄航が始まり、さらに白檀やナマコの貿易が盛んに行われるようになった。しかし、この貿易によってフィジーに銃器が多量にもたらされたことから、部族間の対立の深刻化と激しい戦闘が繰り返されるようになった。この激しい戦いを勝ち抜いたのがバウ族の首長ザコンバウ(Ratu Cakobau)で、彼はトンガの軍隊の支援を得て抗争に終止符を打ち、フィジー全土の統一に成功した。●植民地時代 1871年、ザコンバウはフィジーの王として英国政府に認められ、3年をかけて行政組織を確立した。1874年10月に英国にフィジーを譲渡し、正式に植民地となった。首都をビチレブ島の東に位置するオバラウ島のレブカに定め、96年間に及ぶ植民地の時代が始まった。 1875年に英国からアーサー卿が総督として着任し、やがてフィジーの主産業としてサトウキビの栽培を開始した。労働力の不足はインドから出稼ぎ労働者を送り込むことによって補った。これが今日でもインド系フィジー人の人口がフィジーの総人口の40%近くを占めるに至った原因である。一方、植民地政府は土地の外国人への売買を禁止したことから、土地に関しては82%(出典:University of South Pacific)が今日でもマタンガリと称する先住民系フィジー人の地域共同体によって所有されている。 1882年首都レブカは人口の増加に耐えられなくなり、首都を現在のスバに移した。●太平洋戦争から独立へ 1942年から43年にかけて、約8,000人のフィジー軍はアメリカとニュージーランドの指揮下に入り、ソロモン諸島で日本軍との戦闘に参加した。 1970年10月10日、英連邦30番目の加盟国となり念願の独立を果たし、初代首相に故カミセセ・マラ(就任時は英国植民地政府の首席大臣)が就任した。1987年5月と9月に軍事クーデターが発生して共和制に移行し、国名をフィジー共和国に変更した。
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