フィジーガイドブック
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8 初めはインド系フィジー人に対して特別な感情を抱いていなかった先住民系フィジー人であったが、独立後の経済発展で貧富の差を生むようになり、経済観念に優れたインド系フィジー人は次第にフィジーでの立場を強化することになった。1987年にインド系フィジー人を支持層とする「国民連合党」及び「労働党」が、それまでのフィジー人による伝統的支配に勝利、政権を奪取したことから、先住民系フィジー人はインド系フィジー人を明確に意識し敵対するようになった。これが1987年5月および9月の軍事クーデターを引き起こすことに繋がっている。ランブカ大佐によるクーデターで、2度目の9月のクーデター後に、それまでの立憲君主制から共和制への移行が宣言された。 2000年5月にクーデターが勃発した時には、先住民系とインド系の対立が従来にも増して顕在化していた。このため、インド系で専門的技能・知識を身につけた人々はオーストラリア、ニュージーランドへ移住するケースが増え、フィジー経済への影響が懸念されるまでになった。2006年12月のクーデターは、先住民系とインド系の直接的対立に起因するものではないとされるが、インド系の人々の国外流出は依然として止みそうにない。フィジーは、多種多様な人々との共存および国家統一が重要な課題の一つとなっている。 フィジーは約88万人の人口を有し、前述のごとく先住民系住民とインド系住民他で多民族国家を形成している。先住のフィジー人をKaiviti、インド系フィジー人をKaihidi、ヨーロッパとの混血その他のフィジー人をKaivelagiと呼んでいる。現行憲法では、これら全ての民族をフィジー人(“Fijian”)としている。インド系フィジー人はベンガル地方やビハール地方などの影響が強いと言われている。 先住民系とインド系では、日常生活でも考え方が大きく異なっている。先住のフィジー人はマタンガリという出自集団、いわゆる大部族がひとつの単位になっており、一族の年長者を尊敬し互いに助け合って生活する昔からの習慣が今日もそのまま残されている。たとえば、フィジーの土地の大部分はマタンガリの共同所有であり、土地の売買は法的に禁止されている。都会に働きに出て行った若者が希望叶わず村に戻って来ても、一族が所有する土地で農業を営むことができる。しかしインド系の人々は、同様なケースの場合でも、地方で簡単に農業を始められる訳ではなく、先住のフィジー人から土地を借りる必要がある。新たなチャンスを求め、オーストラリア、ニュージーランドなどに移住を望むインド系住民が増えている。●都市での確執と貨幣経済 都市部の小売業では、従業員としては先住民系及びインド系の双方が従事している社会と生活

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