在のテモツ州)を発見したが、マラリアで死亡した。 その後200年ほどの間は、西洋人の来航は散発的だったが、18世紀後半からはイギリス、フランス、アメリカの探検家がこの地域を訪れるようになり、19世紀前半には宣教師をはじめ捕鯨船員や貿易商が徐々に進出するようになった。●英国植民地時代 19世紀後半、ソロモン諸島では豪州クイーンズランドやフィジーなどの植民地向け労働者の供給地として、白人たちによる「ブラックバーディング」と呼ばれる誘拐船が横行しいていた。これを禁止することを理由としてイギリスは、1893年にソロモン諸島の南東側の島々を保護領にすることを宣言、1895年にツラギ(現在のセントラル州の州都)に植民地政庁を設置した。当時は列強による太平洋地域の植民地分割が進んでおり、これに対抗してドイツはイザベル島以西の島々の占有を宣言した。1897年にイギリスが南太平洋地域での領有権拡大を宣言したことが発端になり、支配地域についてドイツ、アメリカとの摩擦が激化、三国間の交渉の結果、1899年にイギリスがサモアについて主張していた権利を放棄する代わりにショートランド島(現在のウエスタン州の一部)とブーゲンビル島(現在のパプアニューギニアの一部)の間に境界線を引き、ドイツはソロモン諸島から撤退することで合意が成立した。これにより、現在のソロモン諸島の領域がひとつの行政単位区分として成立した。 イギリス統治時代は、植民地行政府関連施設を除くと小さなヤシ農園や民間石けん工場が建てられた程度で特筆すべき開発はなされず、1939年時点でソロモン諸島に住む白人の人口は、行政官や宣教師を中心に500人程度との記録が残っている。●太平洋戦争 1941年12月に太平洋戦争が始まると、1942年4月に日本軍はショートランドに侵攻、5月には植民地政庁のあったツラギを占領し、ソロモン諸島への本格進出を果たした。日本は、米豪の連携を遮断するための前線基地としてガダルカナル島に飛行場の建設を開始したが、同年8月7日に米軍は完成目前の同飛行場とツラギを急襲して攻略、以降、1943年2月7日に日本軍が最終撤退するまでの6ヶ月間にわたり、ガダルカナル島では日本軍と連合軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた。この戦闘はミッドウェイ海戦とともに太平洋戦争のターニングポイントとされ、日本軍は戦艦「霧島」「比叡」を始め24隻の軍艦と輸送船、800機以上の航空機と優秀なパイロットを失い、合わせて2万人の将兵が戦死した(22ページ「ガダルカナルの戦いと戦跡」を参照)。連合軍は以降、日本軍基地を次々と攻略してラバウル方面に西進していったが、1945年の終戦時には、ソロモン諸島ではチョイスル島とショートランド諸島に日本兵が残っていた。5
元のページ ../index.html#7