ソロモンガイドブック
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 ソロモン諸島は太平洋戦争の激戦地として知られている。特にガダルカナル島の攻防戦は連合軍反攻のターニングポイントとなった戦いで、日本側の戦死者は2万人を越えているが、日本兵の多くは戦闘よりもむしろ飢餓と疫病で亡くなっており、その悲惨な戦闘は、別名「餓島」として多くの日本人の記憶に残っている。こうした戦争の惨禍を受けて、戦後は多くの戦友や遺族・関係者が遺骨収集や慰霊巡拝の旅に訪れており、彼らの地元の人たちとの継続的な交流は、経済協力と並んでソロモン諸島の人々の親日的な感情に大きく影響している。ソロモン諸島を訪れた際には、こうした先人たちの記憶もぜひ辿ってみたい。 日米開戦後、日本軍はニューブリテン島ラバウルを攻略して基地を建設後、米豪を分断すべくサモアへの進出計画を立て、ツラギを攻略して守備隊を配置するとともに、前線基地としてガダルカナル島に飛行場(現在のホニアラ空港)の建設を開始した。この飛行場建設を察知した連合軍は、1942年8月7日に大艦隊を派遣して上陸作戦を敢行(上陸地はレッドビーチ)、完成目前だった同飛行場を制圧し、ヘンダーソン飛行場と命名した。 知らせを受けた日本軍は直ちに重巡洋艦を中心とした第八艦隊を急派し、迎え撃つ連合軍と激戦を繰り広げた(第一次ソロモン海戦)。 陸軍は精強で名高い一木支隊(約900名)を急派、空港東側のタイボ岬に上陸し、8月21日未明にイル川(中川)からアリゲータークリークを挟んで突撃を行ったが、米軍の圧倒的火力の前に壊滅、海軍は敵機動部隊発見の報に第三艦隊を派遣、8月24日夜半から東部ソロモン海域で米機動部隊と衝突した結果、空母「龍驤」を失った(第二次ソロモン海戦)。 一木支隊壊滅を受けて派遣された川口支隊(約4,000名)は、米軍が制空権を握る中で9月上旬タイボ岬に上陸、飛行場南側ジャングルからムカデ高地に陣取る米軍に夜襲総攻撃をかけたが、圧倒的火力の前に失敗に終わり、オースチン山方面へと退却した。 相次ぐ奪還作戦失敗を受けた大本営は、第二師団約2万名の派遣を決定。しかし輸送船団が爆撃により大損害を出し、物資のほとんどを失う中での上陸となり総攻撃は失敗した。そして制空権・制海権を失う中で日本軍の補給は途絶え、残存将兵は飢えと疫病の中で悲惨な戦いを強いられた。 12月末、大本営はついにガダルカナル島からの撤退を決定、餓死・病死を免れた敗残将兵約12,000名は、ガダルカナル島西端のエスペランス岬から2月1日から22ガダルカナル攻防戦ガダルカナルの戦いと戦跡

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