サモアガイドブック
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4が記録されている。1768年にはフランス人探検家がこの島に上陸し住民と接触した。次いで1787年に同じくフランス人が現在の米領サモアのツツイラ島に上陸した。1800年代前半には多くのヨーロッパ人がサモアに定住していたといわれている。 1828年にメソジスト派の宣教師が初めてサモアに上陸したが、その時点では既にキリスト教を受け入れる素地ができていた。その後はイギリスやイタリアのローマ、そしてアメリカから宣教師や伝道師がサモアの島々を訪れ布教を開始した。 また、1850年以降になると貿易を目的としたヨーロッパからの移住者も増加し、特にドイツは土地の購入や入植者の送り込みにも積極的であった。●3国統治の時代 19世紀後半には、サモアの伝統的な地位を有する2家系が東西に別れ、住民を巻き込んだ権力闘争を繰り返していた。この闘争にドイツと米・英両国の主導権争いが絡んで混乱が絶えなかった。さらにサモアは、米国に申し出ていた海軍基地の提供を英国とドイツにも提供することにしたため、混乱の収拾の目処が全く立たない状況となった。そして1889年、ベルリンにおいてドイツ・米国・英国の3国は、3国が派遣する領事が、任命されたサモア人国王を補佐して統治を行うというベルリン条約を締結した。 しかしこの条約はまったく効果なく、東西に別れての権力闘争が続いたことから、1899年12月に再び3国間条約が締結された。すなわち、サモア諸島の東部を米国、西部をドイツが統治し、これまでドイツが権利を出張していたニウエ、トンガ、ソロモン諸島からドイツが撤退することを条件に、英国はサモアの権利を放棄した。これ以降、サモア諸島は東西に分裂した歴史を歩むことになった。●西サモアとドイツの時代 1900年2月、ドイツは、西サモアを統治するためにドイツ人知事を任命した。当初の数年間は比較的平穏が続いたが、植民地としての支配が強くなるに従ってサモア人の不満が募り、また伝統を無視したドイツ人知事への反発もあって、これがレジスタンス運動へと発展していった。 1905年にサバイイ島の火山噴火があり、西サモアの状況は一変することになった。噴火は1910年まで続き、その間レジスタンスによる反政府運動もあり、ドイツはサファレラライにあるキリスト教会

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