ミクロネシアガイドブック
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4政 治経 済底的な爆撃により無力化された。特に1944年2月のトラック空爆は2日間で60隻の艦船を海底に沈める猛攻撃だった。補給を断たれた住民と日本兵たちは終戦まで飢えに苦しんだ。●米国の信託統治 1947年、国連はミクロネシア地域を6つの地区(マリアナ、ポンペイ、チューク、ヤップ、マーシャル、パラオ)に分け、米国を受任国とする信託統治地域とした。 米国は経済開発にはほとんど関心を示さなかったが、住民への教育振興をすすめ、1965年にはミクロネシア議会を発足させた。●独立への道 1970年代後半、米国と6つの信託統治地区との間で自治のための交渉が始められた。1978年7月、すでに独自の道をゆくことを決めた北マリアナを除く5地域と、1977年にポンペイから分離したコスラエによって、ミクロネシア憲法草案が起草された。そして各地区で住民投票が行われた結果、マーシャルとパラオでは否認され、ミクロネシア政府合同庁舎その結果、残る4地域(ヤップ、チューク、ポンペイ、コスラエ)がミクロネシア連邦(Federated States of Microne-sia=FSM)を構成する州となり、憲法が1979年5月に発効した。 1986年、米国から財政支援を受ける一方で、国防と安全保障の権限を米国に委ねる自由連合協定(コンパクト)が米国との間で締結され、経済を含む国内問題はすべて自国内で処理することができるようになった。1990年12月、国連安全保障理事会はミクロネシア連邦の信託統治の終了を宣言した。 議会は一院制で、4年任期議員4名(各州1名)、2年任期議員10名(チューク州5名、ポンペイ州3名、ヤップ州・コスラエ州各1名)で構成されている。大統領は4年任期議員の中から選ばれる。政府の課題は種々の面で各州間の利害関係を調整しつつ、いかに経済開発を進めてゆくかにある。 ミクロネシア連邦の経済は、基本的には米国との自由連合協定(コンパクト)による経済援助により成り立ってきた。1996年からは経済自立化への努力の一環として、アジア開発銀行(ADB)など国際機関の協力を得て経済改革を開始し、国家財政の安定化、国営企業の民営化、投資環境

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