ミクロネシアガイドブック
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3間この島に留まった。次いでスペイン人が1529年にポンペイ島に、1565年にチュークに寄港した。 コスラエについては1824年にフランス船が入港したのが西洋人との最初の接触である。当時の記録によるとコスラエには5,000人ほどの住人がおり、武器は所有しておらず、平和的な人々である、と伝えている。●スペインの進出 スペインは、1595年にポンペイ島を自国の領土と宣言したが、カトリックの布教以外の活動はなく、実質的な統治は行わなかった。そうした中、1800年代中期からは、西洋諸国から捕鯨船団と貿易商、プロテスタントの宣教師などが頻繁に各島を訪れるようになった。 スペインは、ポンペイの領有を宣言してから約300年後の1886年、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島、ヤップからコスラエまでのカロリン諸島の領有権を宣言、ポンペイ島の支配権の確立とカトリックの布教活動を積極化した。しかしスペインによる統治は、要塞建設のための強制労働への不満やプロテスタント信者による反発もあり、政治的に不安定な状態が続いた。●ドイツ統治 一方ヤップでは1869年にドイツ人が貿易のための拠点を開設した。以前から領有権を主張していたスペインは1885年に軍隊を派遣するなどして対抗したが、結局米西戦争後にこの地域からの撤退を決め、1899年カロリン諸島はパラオとともにドイツに売却された。ドイツの関心はミクロネシアの統治というより、ドイツ人が経営するコプラの生産を守ることにあった。他方20世紀に入ると日本人も貿易を目的にこの地域を訪れるようになった。●日本の統治 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は赤道以北のドイツ領ミクロネシア地域(現在のミクロネシア連邦、パラオ、マーシャル諸島、北マリアナ諸島)を占領した。1920年、国際連盟はこれら地域を日本の委任統治領とした。日本は1922年に南洋庁を設置、経済開発と教育普及を進めた。●太平洋戦争 太平洋戦争がはじまるとトラック島(チューク島)には連合艦隊の司令部がおかれ、ミクロネシアの各島々にも守備隊が駐屯した。米軍の反攻がはじまると各守備隊は決戦に備えたが、実際には米軍の「跳び石作戦」によりアメリカ軍が占領したのはユリシー環礁のみで、その他の島々は徹市内に残る日本軍戦車

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