5(Atiu)、タクテア(Takutea)、マヌアエ(Manuae)、パーマストン(Palmerston)の5島で、上陸したのは無人島のパーマストン島だけであったと伝えられている。●ラロトンガ島の発見 1789年4月「バウンティ号の反乱」で知られるキャプテン・ブライ(William Bligh)がアイツタキ島(Aitutaki)を発見している。船がアイツタキを出港した後に反乱が起き、その首謀者のマッコイが率いた船がラロトンガ島を発見したといわれている。●キリスト教伝道とイギリスの時代 1821年にアイツタキ島でロンドン伝道師協会による布教が始まった。伝道師はタヒチから2人のポリネシア人を副伝道師として伴っていた。ポリネシア人による旧来の生活習慣や社会的秩序を巧みに利用した伝道は、アイツタキ島で驚くほどの成果を挙げ、1823年にはラロトンガ島での伝キリスト教会道を開始した。クック諸島は、キリスト教の布教と共にヨーロッパ人による貿易や捕鯨の中継基地として栄え1888年にはイギリスの保護領となった。●イギリスの統治 イギリスの統治によって経済的繁栄はもたらされたが、ヨーロッパからの疫病が蔓延することにもなった。1823年にはラロトンガの人口は6,000~7,000人であったが、7年後の1830年にはタヒチからもたらされた赤痢によって1,000人が死亡した。ヨーロッパで一般的であった百日咳や麻疹、インフルエンザが次々に島の人々を襲い、1854年には人口がわずか2,500人に減少した。わずか31年間で人口は3分の1になったことになる。さらに1867年には人口が1,856人まで減少したことが記録されている。人口の減少は病気のためだけでなく、多くの住民が一般の労働力および奴隷として南米のペルーに送られたことにもよる。イギリス政府はラロトンガの人口の減少を食い止めるため、他の島からの移住政策を開始したが、実際に人口の減少を止めることができたのは20世紀に入ってからであった。●独立への道 第2次世界大戦中、アメリカ軍はアイツタキ島とペンリン島に滑走路を建設したが、戦争による影響は殆ど無く、戦後、他の太平洋島嶼国が独立に向けて動き出した際にも、クック諸島は静かなままであった。 クック諸島に独立への機運が現れたの
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